日本語から見る日本女性のイメージ[日语论文]

资料分类免费日语论文 责任编辑:外语论文网更新时间:2017-04-01
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 はじめに

周知のように、日本は昔から今まで男尊女卑で、女性の地位が低い。亭主関白な日本男子と大人らしくて丁寧な日本女子という男女関係のパタンは、世間ですでに固定的なものになった。20世紀60年代は女性地位の巨大な転換が発生した1つの時期で、この時期のフェミニズムは女性の地位に重大な影響を与えた。日本経済の発展に連れて、女性の地位も高まり、女性のライフスタイルも多様化された。「男は外、女は内」という伝統的な思想が変えられ、多くの女性が社会に進出している。近年の女性の社会進出はめざましい。社会の一員として、誇りをもって働く女性は増えている。だが、女性の社会進出の歴史はまだ浅く、女性は差別的な扱いを受け続けている。生活でも、ほとんどの女性が家事や育児の責任を負わなければならない。女性の社会的な負担は少し軽減することはない。

本論文は日本の女性が昔から今まで社会に置かれている背景を分析することを通じて、日本語から反映する日本の女性の社会イメージを研究してみようと思う。それに、日本の女性のイデオロギーを簡単に分析して、根本的に女性の今の社会的なイメージと地位を認識することができるように努める。日本語は昔から今まで日本の女性の社会的なイメージを表す一つの最も有効な道であると思う。したがって、日本語から女性のイメージを検討したいと思う。

 

第一章  日本文化の中でみられている女性

1・1 日本の女性のイデオロギー

封建時代にある日本は、文化及び思想の上で大量に中国の儒家思想を導入した。儒家思想には、女性の言行や操守に大変きびしく限定している。例えば、有名な「三従」のことである。「三従」とは、「家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫の死後は子に従う」ということである。幕府時代、「女大学」注1という本があって、女子の修身・斉家の心得を仮名文で記している。この本は、封建道徳で一貫し、江戸時代に女子一般の修身書として広く用いられた。その核心の思想は、四徳で、つまり、「婦徳・婦言・婦功・婦容」ということである。

そのほか、6世紀から、仏教も中国から日本に伝えられて、儒家思想と日本の主なイデオロギーになった。仏教によって、女性は来生の快を楽しみたがったら、まずは男性にならなければならない。それなら、女性の身は不浄であり、男性の身より劣ると思われる。

明治以前、日本のイデオロギーをコントロールするのは主に儒家思想と仏教であった。その共通点は女性の言行を慎んで、そして、女性が中国語と男性の表し方を使うのを禁止するということである。この二つの思想は当時の統治階層に利用されて、彼らの女性の言語と行為をコントロールする根拠になった。

明治維新以降、日本は資本主義の道に踏んで、迅速に工業化した。それに応じてイデオロギーの領域でも変化した。儒家思想と仏教はまた存在していたが、その影響力は大いに減退した。一方、ブルジョアジー価値観は日本社会に染み込み始めて、日本の女性の思想も重大的で歴史的な転換が発生した。日本の啓蒙思想家は大量の欧米の女子の教育する面を議論する文章を訳し、紹介した。西方の近代の思想の影響を受けて、日本社会は女性に対する思想は進歩になっていた。しかし、日本の資本主義の発展モデルはその自身の特徴があって、大量の封建的な残りを保留した。

二十世紀20年代以前、日本は女性を天皇制国家の国民にして、精神的に全体の国民の統一を実現した。当時の国家の全部の力を動員して戦争を行うという社会背景の下で、理想的な女性の体系を創立して、その目的は女性を教化して、当時の社会イデオロギーの需要に適応するのである。

第二次世界大戦の時に、「国粋主義」は日本でやかましく宣伝された。戦争の需要に協力するため、女性観は日本のファッショ注2の軍国主義にねじまがられて極限に達した。日本当局は、女性の支持がないと、戦争をやり続けることができないと認識した。そこで、母性と国家主義、軍国主義を結び付けて、たくさんの「靖国の母」「軍国の母」などのような「模範的な妻」のモデルを確立した。当局の尊重した模範的な母と妻は、後方で積極的に戦争に支持し、貢献する女性である。日本がますます深く自分の起した侵略戦争に陥ることに従って、日本の女性も犠牲になって、やむなく国家機関の政治の需要に従った。

第二次世界大戦の後、日本は民主化の発展の道に上がって、日本の女性は参政権を獲得し、社会地位は非常に高まり、進学率と就業率も大幅に引き上げた。しかし、かなり長い間に、「男は外、女は内」という男女の分業する意識は依然として日本の国民の意識の中での主流であって、大量の専任主婦の発生と存在は最も良い証明である。この意識は長い間に日本社会に存在して、日本の経済が急激に発展することに最大の役に立った。

日本の女性が日本社会での地位は一つの継続的な発展の過程であって、異なる歴史時期は異なる特徴を持っているが、過去の封建制度の下でも、今の資本主義の民主社会でも、日本の女性は社会でずっと従属したのである。

 

1・2 日本の女性の名前の発展

日本には、「名は体をあらわす」という諺がある。それは、日本が人の名をとても重視していることを証明する。名は、親の子供への期待を体現し、彼らの美しい願いも含まれている。それに、名は一つの民族の自然観や価値観などを体現できるものである。長い歴史の中には、日本の女性の名前も一連の変化を経験した。

1・2・1 実名を回避する考え

 古代の日本人は名を口にしないよう心がけていた。一般的には、じかに人の名をいわない。例えば、『源氏物語』の作者――「紫式部」に、「紫」はその女主人公の名前であり、「式部」は平安中期のごろの女官名である。『枕草子』の作者――「清少納言」に、「清」は姓の「清原」の略称であるが、「少納言」はその時の女官名であり、ほんとうの名前ではない。

 女性が名前ないのは、一方では女性の社会地位が低い、他方では昔の人の実名を回避する考えが社会的な言語生活の中で体現される。日本の神話伝説の中、日本国土の女神が誕生した。その「イザナミノミコト」の名前の中、「いざな」は「誘う(いざなう)」の意で、「み」は女性を表す語である。恐らくこの「伊邪那美命」もただ女神の美称であり、決してその本当の名前ではない。

1・2・2 「~子」の出現

 周知のように、日本の女性の名前には多く「~子」という字がある。例えば、「花子」や「夏子」や「美智子」など。「~子」は一つの日本の女性の名前を区分する重要な標識になった。日本の学者「杉本つとむ」によっては、平安時代に日本の上層社会の女性の名前の中では、すでに「~子」が現れた。例えば、その時の政界の風雲児の藤原氏の娘たちには、「尚子、明子、多美子、頼子、慶子、順子、定子」などと名を付けた。これらの名前は少しも時代遅れと感じない。平安時代の貴族階層の女性の名前は人格と人間性の上ですべて、女性が賢く、行いの正しい女性であると求める思想を体現した。

 その他に、武士階層は「玉寿姫」などのように、「~姫」で女の子に名前をつけたことがあった。普通な平民である女性の名前は多く「春」「秋」「松」「杉」などである。江戸初期の文学作品の中でも、「おあん」「おきく」などの名前が現れ始めた。結論的に、平安時代には、「~子」はただ初めて手がかりを現れ、ただ少数の貴族の女性の特権であり、まだ普及していなかった。

1・2・3 江戸、明治時代に女性の名前の特徴

 近世から江戸時代まで、女性の名前は普通、漢字を使わないで、かな文字で標識した。たとえ漢字を使うとしてもいくつか筆画の少ない簡単な漢字を選ぶのである。例えば、「おねね」「花子」など。

 江戸時代となって、両音節の「~子」のない簡単な名前が普通な平民の家庭で普及し始めた。このような名付ける傾向は明治時代まで継続した。みんなの熟知した明治時代にある『十三夜』注3の作者――「樋口一葉」の元の名前は「なつ」であるが、漢字での「夏」あるいは「夏子」のものではない。その他に、「お花、お藤、お種、お吉、小梅、お房、おさん」などの女性の名前は当時の浄瑠璃の中で現れ始めた。

 江戸時代に、「~子」のある名前は普及しなかったが、江戸時期の女の知識人の中で「かもこ」「けりこ」などの名前が現れた。明らかに、「~子」はやはり命名に用いられて、ただ極めて少数の教育を受けた女性に用いられた。このほか、江戸時代にある女俳人は「千代女」と呼び、芭蕉の先妻は「可南女」と言い、恋人は「寿貞尼」と言った。これらの名前はとてもおもしろくて、恐らく「~女」「~尼」が近代の「~女史」と同じに当時の一種の敬称である。

 明治時代に、「~子」のある女性の名前は多くなったが、明治の20年代の文学作品を見渡すと、「~子」のあるヒロインと女性が発見しなかった。しかし、肯定できるのは、上流社会、知識人、教育を受けた人の中ではすでに「~子」のある名前を使っていた。例えば、石川啄木の夫人――「節子」、小説家――「平林たい子」、女の詩人――「与謝野晶子」、森鴎外の妹――小金井喜美子など。しかし、これは公衆の中で「~子」がもう普及していることを表明できない。「~子」の普及は20世紀が始まってからのことである。

1・2・4 大正、昭和時代に女性の名前の特徴

 大正時代となって、「~子」はもうとても普遍的であった。上下、職業、身分の違いがなく、もう一部の人の特権ではなかった。明治の初めの百年には、ついに日本の多くの女性は、「~子」へのあこがれを実現したと言うことができる。

 大正の初期から昭和の20年代まで、女性の名前の中でわりに多くのは「としこ、よしこ」であった。昭和の初めから30年代までは「かずこ、ひろこ、けいこ」、特に第二次世界戦争の後、「けいこ」という名をつけた女性が急激に増加した。調査によると、昭和10年~昭和30年、「~子」のある名前は全体の65%を占めた。昭和30年代となると、「あけみ、まゆみ、ひろみ」などの名前が現れた。昭和44年前後は、「みか、みき、りか」などの名が現れた。昭和時代の女性は「~子」の名前を持つことができるだけではなく、その上名を付けるのが更に自由で多様化であった。

1・2・5 平成時代に名づける傾向

 平成時代に入ってから、女性の名前はもう「~子」に限りなくて、更に多様化に向かい、時代の息も更に備えた。いくつかの映画スター、歌手の名前も子供の両親の見習う対象になった。両親が名を付ける時、過去は比較的に字の筆画を重視したが、今日は伝統的な価値観と風俗習慣にこだわらなく、更に人への直観的な感じと読み方を重視する。時には、甚だしくは、どれらの字が男性に適するか、どれらの字が女性に適するかをあまり気に留めなかった。

 このような時代背景の下で、両親は子供につけた名前も更に斬新でおもしろかった。「葉夢(かなむ)、虎楠(こなん)、明夢(なるむ)、深音(みのん)、鼓鼓乃(ここの)、姫羅羅(きらら)」などは、ちょっとみると、男の名前かそれとも女の名前かを確かに見分けにくかった。

1・2・6 今の女性の名前の特徴

 今の日本の女性の名前を見渡すと、「信、静、栄、規、節、良、徹」などの伝統的な名前はまだ見える。甚だしくは「百合、秋」などの名前もあるが、日に日に減少する勢いが現れる。その他に、女性の名前の中では以下の特徴を見ることができる。①「~子」をつけた名前は依然として多数であって、その中は「ヒデ子」「ふみ子」などのようなかな文字と漢字を混合して標記する名前もある。②「~子」に代わりに「美」がしきりに女性の名前の中で現れ始める。例えば、「由美、恵美、美穂」などのようである。③名を付けるのは、漢字の字形だけを見るだけではなく、いくつか発音のしなやかで美しくて耳に心地良い漢字を選ぶことも重視し始める。④「良、義、仁、忠、真、孝、礼、智」などの漢字は名前の中で面目を施す機会は大いに減らす。⑤名前の中で「ミ、ア、ユ、カ、サ、マ、チ」などを発音する字が増加する。例えば、「美、愛、優、雪、真、知」など。

 以前は重視されないで名前がないことから、古代の女性の賢くてきれいな特徴を体現する「良子、規子、節子」などまで、さらに今日の自由に名づける「マリ、理恵、美咲」など、古くから伝わる日本の女性の名付ける史は、日本の女子の社会地位の変化の史であると言えるかもしれない。

 

 

第二章                   日本語における女性に関する言葉

2・1 日本語の女性語の由来と変化

 日本語の女性語は奈良時代からもう発生し始めた。しかし、当時の女性語はまだ完備していなくて、女性が男性に対する呼び方の面だけで体現した。それは、「君」で男性のことを呼んで、敬意を表したのである。平安時代となると、きわめて少数の人称代名詞のほか、会話の文の中での男女の性格の違いは依然として多くなかった。

 室町時代に、女性語の歴史上の最も人目を引く「女房詞」が発生した。これは宮の中で女官たちが使ういくつかの飲食、服装、生活の用具、日常行為などの面に関する言葉を指す。初期の「女房詞」は一定の隠語の性質を持って、その上できるだけぎごちない漢字を使うことを免れて、女性のやさしさを体現した。例えば、「あおもの(野草)」「あか(小豆)」など。その後、女房詞は社会でのあまねく使う女性語に変化して、たくさんは甚だしくは今日まで用いられている。

 江戸時代となって、女性が中国語を使うのはよくないという特徴が最も明らかである。明治維新の後、女性にの中国語と漢字の語彙の使う制限はもう解除したが、江戸時代からの伝統は維持してきて、女性語の使うのはもっと含蓄のあることを強調する。明治、大正の後、女性語はわりに大きい変化が発生して、衰退の兆しが現れて、使うのも混乱する特徴を現した。

 昭和時代に、日本はいくつかの口語の文法書が現れた。例えば、三尾砂(1942)の『話言葉の文法』。これらによって、私たちは、女性が優雅で恭しくて謙虚な伝統を従う以外、必ず東京の教養ある中流社会の言語――「標準語」を使わなければならないことがわかる。標準的な口語文法の研究を進めることに従って、東京中流社会の女性の言語に基づき、厳しい選抜を通じて、近代的な日本語の終助詞を中心としての女性語の完備している体系をだんだん形成した。

 日本語の女性語の進展から見ると、各時代の女性語はそれぞれの特徴があることがわかる。

 

2・2 日本語の中で見られている性別差

 昔から、日本語の中に性差別の現象が存在している。古代日本で、女性が差別されたのは各方面で表現した。例えば、仏教の寺院は女性が入ることに禁止し、即ち「女人禁制」である。たくさんの地方の栽培の神を祭る稲田は「女入れずの田」である。

 日本語の中の性差別は主に以下の二つの面で表現する。

2・2・1 女性語

 日本語の性差別はまず日本語の中に女性語の存在することに表現する。多数の言語の中で、男女の用語の違いは小さいが、日本語における男女の用語の違いはかなり大きくて、そのために女性語を形成した。考証によると、奈良時代に、このような違いは明らかではないが、ただいくつかの言葉だけに限った。室町時代に、「女房語」が発生し始めた。江戸時代以降、男女の異なる社会地位を定めたため、女性の言行は社会のさまざまな制限を受けた。女性語は発音、語彙、文法と表現などの面で、男性の使う語と異なる特徴がある。それに、今日の日本語におけても、女性が敬語を使うのは依然として男性より多くある。

2・2・2 女性に関する言葉

日本語の中で、たくさんの男性と関係がある語はすべて「大きい」「雄大な」などの意味を含める。例えば、「丈夫」は「じょうふ」と読む時には、「一人まえの男子」「夫」「良人」などの意味である。「じょうぶ」と読む時には、「健康」「強壮」などの意を表す。しかし、女性と関係ある語は常に「気が弱い」「微小」などの貶す意味を含める。

 似ている例はまだたくさんある。例えば、「男波」「男浪」は大きな高い波であるが、「女波」「女浪」は大きい波の中の低い波である。それ以外に、日本語の中で、隠語として盗賊を「娘師」と呼ぶ、「娘」は女の子、少女などの意であって、確かに「盗賊」と女の子、少女を結び付けにくい。

 

2・3 日本語で表した男女の不平等

2・3・1 氏名及び呼称の面

日本の女性が結婚した後の氏名の変化は、中国の旧習俗とはだいたい同じである。同じなのは、結婚してから女性が夫の姓を自分の姓とする。違うのは、日本の女性がもとの名を使うが、実家の姓を名乗らない。古代中国の女性が一般的に「~~氏」と呼ばれて、「氏」の前はまず夫の姓で、それからは実家の姓である。例えば、「張王氏」とは、「張」は夫の姓で、「王」は実家の姓のことである。もとの名はもう使わない。こういう両国の特徴はちょうど逆である。日本の女性を解放する運動は中国より強く行っていたようであるが、女性が結婚後に姓を変えるのは一つの「決まり」になった。この決まりは日本の女性を解放する運動が終わるまでの長い間には衰えなかったのである。「夫婦は別の姓をなのる」のは進まなかったが、日本女性に差別をつける古い考えが根強く存在していることは明らかである。

それに、日本のさまざまな新聞に、「田中正一氏」や「田中由美子さん」などがよく見える。こういう方法で男女を区別することはもう珍しくない。「氏」と「さん」はもとは敬意を表する言葉であり、ただ程度が違う。『表現類語辞典』(藤原与一他 東京堂)には、「『氏』はより高い地位と社会的な距離感が暗示され、『さん』はより下位の地位と親しみを表す」と、「氏」と「さん」を定義する。観客的で公正であるとよく人に思われるマスメディアであっても、「男尊女卑」という観念も存在している。

2・3・2 言葉と表現の面

 日本語の中で、古代の男性が他人に自分の妻を話題にした時、「愚婦」「家内」のような謙称はたくさん使った。中世、人々は大臣、将軍の妻を「台所」「御簾中」と尊称し、武士の妻を「奥様」と尊称した。江戸時代に、「御内儀」「御寮人」などのような称呼も現れた。これらはすべて尊称であるが、すべて日本の女性の生活範囲が制限を受けることも証言できる。近代的な謙称「家内」も、尊称「奥様」もかなり広く用いられている。

 日本語の中で、女性を貶し、差別する慣用語はたくさんある。例えば、「女の話は一里限り」で女性が見識のないことを貶す。「娘の子は強盗八人」で娘を嫁がせることが強盗に遭うような愚痴をこぼす。「哲婦城を傾く」という言葉は中国語の「紅顔禍水、·禍国殃民」などの詞ともほとんど同じである。

2・3・3 漢字の構成の面

 日本語の中の漢字はほとんど中国から導入したのである。ある漢字はちょっと変更を行い、大部分はその通りにするのである。現行の漢字の中で、「女」という偏旁をつける漢字がたくさんある。これらは常に人に不快な感じがし、貶す意味を持つ。例えば、「奴、婢、妖、嫌、嫉、妬」などは、すべて人に一種の不快な感じをあげる。さらに人にわからないのが、中国語の「奸」という字が日本人によって意外に「姦」に変更して続けて使った。これは日本の女性をしきりに憤怒させる。

 女性が結婚した後、婦人と呼ばれる。日本人は「婦」を「箒を持った女の人」と解釈する。実はこれも中国にある「婦」の本意である。明らかに、男女の不平等という悪習も徹底的に漢字の構成に体現されている。

 

2・4 日本語の諺で現れた女性のイメージ

諺は民衆の中に生まれ、代々に言い習わされた固有の言葉である。人々が長期に渡って、生活を体験したり、知恵を十分含めたりとしたものである。その中、ユーモアを溢れたものもあり、諷刺を持ったものもある。もし、言語は文化の鏡のようなものと言えば、諺は更に集中的に民族文化の情報を含めるキャリヤーとも言える。言い換えれば、諺を通して、民族の考え方、価値観、心理特徴などの文化の情報をある側面からある程度に分かる。他の言葉と同じ、日本語で内容が非常に豊かで日本人の生活の各方面を及んでいる諺が数多くである。その中で、女性の姿を見つけるものも多い。その諺を調べてみたら、日本の女性の社会的な地位と役割、およびに女性に対する考えと評価が分かれる。

2・4・1 社会における女性

日本の文化や言語などは長い間中国に影響されていた。まずは以下の諺を分析して、一つの関係が存在していると気がつく。つまり、女は人身が男に従属していたのである。

○夫に付くが女の道注4/女子从父是正道

○女子は五障三従注5あり/女子有三从四德

○女に七去注6妇有七去あり/

 日本語で、夫は普通自分の妻を「家内」とか、「女房」とか、「愚妻」とか、「うちのやつ」とかと呼ぶ。それに反して、妻は夫を「主人」と呼ぶ。やはり男尊女卑である。「家内」や「女房」などの称呼は、妻がただ家事をする人にすぎないと示す。

  ○鬼と女は人に見えぬが良き/女人和魔鬼还是呆在家里不见人好

○男は内を言わず、女は外を言わず/男子不入内,女子不向外

○男は家を作り、女は家庭を作る/男子建家,女子守家

○女子の横座は百になってもない/女子百岁不能坐上座

 以上の諺から見れば、日本人の伝統的な観念において、男性は主導的な地位にい、女性は従属する。

2・4・2 言葉と行い

女性の言行というと、「饒舌」「うるさい」「姦しい」などの表現を思い出しやすい。日本語には、こういうような諺も多くある。日本人の価値観と世界観で、「言わぬが花」「沈黙は金、雄弁は銀」などの表現も存在している。だから、饒舌な女には自然にいい印象がない。例えば、

  ○女三人寄れば姦しい/三个女人一台戏 (女が三人集まると、おしゃべりだから、大変うるさい。)

  ○女の長尻/女子话多 (女が長話のためいつまでの座り込んで、帰らないという意味である。)

 一方では、男性の社会で女性の言行を貶し、他方では、社会は女性の言行にまた一連のきつい要求を提示する。標準的な言語や物静かで知性的な措辞や礼儀正しく謙虚でていねいな態度などを含める。例えば、

  ○女と鰹節は堅きほど良し/女人和干松鱼还是硬的好

○女は人間を左右にせよ/女人对谁都应和蔼 (女は誰に対しても愛想をよくしなければいけないという意味である。)

○女は会釈に余れ/女人要彬彬有礼 (女は大いに腰を低いしてお辞儀をするのがよいという意味である。)

○女に白い歯は見せられぬ/女子应笑不露齿 (女にやさしい笑顔を見せると、付け上がって男を侮るから、見せてはいけないという戒めである。)

2・4・3 気質と知恵

中国の伝統的な思想におけては、女は髪が長く、見識がないから、知能の面では女性が男性に及ばない。日本は中国の儒家思想の影響を受けて、そういうような見方もある。例えば、

 ○女の知恵は鼻の先/女人见识短 (女の知恵は目先のことばかりにとらわれ、先のこと、大局的なことが見えなくなりがちだということである。)

  ○女の鼻先思案/女人的短见识 (「鼻先分別」)

○女の話は一里限り/女子话题窄 (女の話題の範囲が狭く限定されていることをいう。)

○女の賢いのと東の空明かりとは当てにならぬ/女人的聪明不可信

 これらの諺は、極端に女性が愚かで、見識が狭いと思われる。たとえ、まれに知恵のある女性が出るとしても、言及するに足りない。

  ○女同士は角目立つ/女人好吵闹、争斗 (女は心が狭いため、とかく、衝突しやすいものであるという意味である。)

○女は水性/妇人流水性 (女は水の流れのように移り気で浮気な性質である意味である。)

○女心と秋の空/女人的心思如秋空无常态 (女心を秋の空にたとえて、変わりやすいという性質を現す。)

 以上の諺から見て、女性への貶す見方がたくさんあることは明らかである。

2・4・4 容貌や外形

 社会ではかねてから女性の性格、容貌に対して多くの要求を持っていた、性格がやさしいし、容貌が美しいし、着飾ることを重視することなど。例えば、

  ○女は衣装髪形/女人靠服装和发型 (女は衣装や髪をよくすることが大切である。)

○女は愛嬌、男は度胸/女子要温柔,男子要勇敢

○女は氏無くて玉の興に乗る/女子不靠门庭,靠美貌

○女は着物が命から二番目/女子衣物仅次于生命 (女が着物に愛着を持ち大切することという。)

○男は礼に余れ、女は華飾に余れ/男子要知礼,女子要爱俏 (男は礼儀を尊び、女は夫のために美しく飾るべきである。)

 以上の例は、女性に対する容貌の重要さを表明する。一人のきれいな女性は、たとえ出身が貧乏であっても、権勢のある家柄に稼ぐことができて、豊かな生活を過ごす。女性は花瓶のようであって、ただ一種の装飾品として存在して、そして男性の生活に飾りを添えている。

 以上は、簡単に日本語の諺で女性の地位とイメージを分析した。指摘しなければならないのは、一般的に言えば、諺から反映したのはただ社会の一面であって、全貌ではない。一方では、諺の生まれはずっと昔のことであって、伝統的な見方と観点を反映したのである。ある内容はもう近代社会と一定の食い違いがある。社会の進歩と発展につれて、女性の教育を受ける機会が増加し、女性の自己意識も目覚めた。人々の観念は絶えずに変化していて、女性への認識ももちろん停滞して進まないのではない。

 

終りに

1868年の明治維新以後急速に近代化が進んでからも、日本の社会が基本的に男性中心社会であることに変わりはなく、男性は外で働いて生計を維持し、女性は家で子供を育てて家事をとりしきる。しかし、これまでに、女性の地位向上のため、積極的に活動した人達もすくなくはなかった。1980年代の日本の女たちは、彼女たちの祖先には想像もつかなかったほど物質的な生活で豊かさと便利さに囲まれて暮している。よくまわりの人から、「男の最も望ましい人生としてはアメリカの給料をもらい、イギリス風の部屋に住み、中国人の調理師を雇い、日本の女性を妻に娶る」ということを聞く。いろんな変化は現実社会での女性地位の向上を体現するとともに、「男女平等」という理念に対する理解も次第に深まってきたことも物語っているではないか。

本論文は日本文化おもに日本語から反映する日本の女性の社会イメージを研究することを通じて、日本の女性のイデオロギーを簡単に分析し、日本の言葉及び文化などの面から、根本的に女性の今の社会的なイメージと地位を簡単に論述していた。

総括に言えば、日本女性の地位は高くなったとはいえ、先進国の中で、依然として低いのである。日本女性にとって本格的に男女平等を実現させるのはまだまだ遠い道のりがあるだろうと、私は思う。

 

謝  辞

 卒業論文の指導教師として、賈小妹先生がご多忙にもかかわらず、何回も精緻なご指導をしていただいた。本研究を行うことにおいて、本論文作成中、本論文の結びに当たり、特にこの論文についての論旨、構成、言葉遣い、日本語の表現などに関することは、先生から細かいご指導をいただいたおかげで、この卒論が順調に出来上がった。ここで心から感謝の意を表したいと思う。

 

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